日向創は人間である。十数分前にここへ迷い込んでからの意識はかなり曖昧かつ朧気な頼りないものであったが、さすがに自分の名前や性別や種を忘れるほどではない。自分は人間で男性の日向創だ。他の記憶がどうであろうともそれだけは間違いない。
靄のかかったような頭でただひとつ確かな自分の名を思い出しながら、日向は目の前で揺れ動くふたつの突起に触れた。その手触りは皮膚とも骨ともつかない不思議なもので、どこか象牙に似ている。しかし今日向の触れているそれは象牙ほど滑らかでもなければ生き物の体から離れた冷たさもなかった。
さてこれは一体何なのだろう、日向はぼんやりとしたままの頭で考える。ぺたりと手のひらで触れては指先でなぞってみると、僅かだがぴくりと動いた。ああやっぱり生き物の角なのかしら、なんて思いつつ興味本位にそれを掴んで引っ張ってみると、ぎにゃああああああと情けない声が視線の下方から聞こえてきた。
「いってえええええええええ!!!」
「あれ?」
「あれ?じゃねーよ!何なんだオメーは!いきなり出てきたと思ったら人の角掴みやがって!」
はて、人に角など生えていただろうか。内心首を傾げながら日向は目の前で勢い良く泣き怒る男を観察する。
日向創は間違いなく人間である。では目の前の派手な頭の男はどうであろうか。顔や髪の色だけならば原宿だの渋谷だのの街を歩いていそうな見た目だが、衣服は時代錯誤もいいところな和服(それもかなりだらしがない着方だ)であったし、何より男の額からはふたつの角が天に向かって伸びている。ハロウィンの仮装だと言われれば信じる程度の見た目だったが、その角に血が通っていることを実際に触れた日向は知っている。
鬼、と日向は無意識に口にしていた。昔絵本によく出てきたあれに、男はよく似ている。その見た目や言葉遣いは至って現代の若者であったものの、それが日向の思い浮かんだ中では一番しっくり来る答えだったのだ。
「そーだよ鬼だよ!今その鬼に一番しちゃいけねーことしたんだよオメーは!!」
やはり目の前の男は鬼で間違いないようだ。正解だ、やったあ。などと現実逃避に近い言葉が頭の中でぷかぷか浮かぶ。生憎それも睨みつけられて一瞬のうちに霧散したが。
「はあ、それは……ごめん?」
「絶対悪いと思ってねーだろ!つか謝るならせめて敬語で謝れ!何フツーにタメ口きいてんだ!!」
「そう言われてもなあ、心当たりがないんだから仕方ないだろ」
「心当たりもクソも、今さっきオメーがオレの角触ったのが問題なんだよ!」
自分の行動くらい覚えとけよ!と詰られようやく日向は先程の自分の行動を振り返った。どうもここにいるとぼんやりしていけない。
鬼にとって角に触れるのはタブーらしい。それがどのような意味を持つのか、角を持たない日向には理解しかねるが、人間でもいきなり体に触られれば気持ちが悪いのだからそういうものなのだろう。そう考えれば彼には申し訳のないことをした、と素直に思う。
「いいか、鬼の角ってのは誇りなんだ!生まれた時親に触られる時と、け、結婚の時以外は誰にも触らせねーんだよ!!」
「はい、本当にすみませんでした……え?結婚?」
「お、オメーのせいでオレ、もうお婿に行けない体になっちまって……!」
さっきまで怒っていたというのに今度はぼろぼろと泣き出して、忙しいやつだ。彼は鬼だが、たとえ人間であってもその落ち着きのなさについては誰もが同じ評価を下すだろうという妙な確信があった。ただ話している内容と見ている光景があまりに突飛なので、その評価は特に意味を成さない。
「つ、角を触るとお婿に行けないのか?」
「あ、当たり前だろ……!お前、下手すりゃ下触られるよりヤベーんだよ角ってのは!それぐらいデリケートなんだよ!!」
「そ、そっか、大変だな?」
「責任とれよ」
「え?」
「責任取って、お、オレの嫁になれ!でなきゃ証拠隠滅のためにオレにここで食われろ!」
「えええ……」
すまん、意味がわからない。と額を押さえようとした手を掴まれて、より日向の頭の上に浮かぶ疑問符は数を増やす。そもそも証拠隠滅できるならそんなことを宣言せずにさっさと自分を食らえばいいものを、この鬼は変なところで律儀に言葉にしてくる。それだけ本気であるということなのか、それともただ阿呆なだけなのか。
名前も知らない目の前の鬼は、赤いのか青いのかわからない奇妙な顔色をしながら(日向としては万が一の可能性に賭けたいところだが、恐らくは)同性である日向に結婚を迫ってくる。
いくら何でもこんな間抜けな雰囲気の中で死ぬのはさすがに嫌だ。その上食べると言うのだからきっと痛い。痛いのはもっと嫌だ。それに今の日向は迷子な上に記憶も朧気だ。ここがどこの山中なのか森の中なのかもわからないし、ほとんどのことは覚えていないので正直なところ身動きが取れないのである。
死にたくないし、逃げられない。ならば、選択肢はひとつだ。
「ええっと、なんだ、不束者ですが……?」
日向創は人間である。とうにわかりきったことだが、今度からはそこに鬼の妻であると付け加えねばならない。これから先名刺などを作る際にはこれを肩書とするのだろうか。日向にはわからない。わからないが、不思議と抵抗はなかった。何故なのだろう、理由は思い当たらない。強いて言うなら色々と記憶が曖昧であったのと、目の前で不思議な顔色をしているこの派手な鬼が、やたら情けなかったからかもしれない。
「泣くなよ、ちゃんと幸せにするからさ」
「いやコレ全部オメーのせいだからな!」
日向創は人間である。そして今この時からは、鬼の妻だ。