星を掴む


 左右田和一にとっての日向創は、手が届く距離にある星だった。一等星ではないものの、それなりに明るく温かく、距離もそう遠くない星。けれどけして左右田の邪魔にはならない。つまり、日向という人間は左右田にとってとても都合が良い相手だった。
 都合が良い相手だからこそ、左右田は日向を近くに置いた。確かに(他のややこしい面々と比べて)共に居て楽しそうな相手であるとは思ったが、それもどこまでも打算に基づくものだった。
 ただ、それが左右田の一方的なものだったとは決して思わない。
 左右田は日向の持つ強烈な承認欲求を知っている。お互いの感覚が似通っていたり、シンパシーを感じていたからかもしれないが、左右田は日向と知り合ったかなり初期の時点から、日向の歪んだコンプレックスに気が付いていた。
 それに気が付いたのは何故だっただろう。あまり正確には覚えていないが、度々日向に絡んだり頼ったりした時に、日向は酷く満たされたような飢えたような瞳をして左右田を見ていたからかもしれない。思えばいつも日向は左右田に頼られると、仕方ないという体を取りながらも満ち足りたような表情を浮かべていた。薄らとだが、そこから日向の「頼りにされる人間でありたい」という願望を、左右田は見抜いていたのだった。
 それを知っていたから左右田も日向を手近な位置の友人として重宝していたし、同じく日向も自らの承認欲求を満たす相手として正しく丁度良い――お互い利害が一致した――関係を結んでいたと、左右田は認識している。左右田も日向も他人というものに思うところがあったからだろう、表立って持ちかけたわけではないにしろ、この利害の一致した友人関係は上手くいっていた。
 左右田は過去のトラウマから、人間不信に陥っていた。一人が寂しいと思う左右田のような人間にとって、その事実は不便この上ないものであったけれども、それと引き換えに左右田はある種の器用さを手に入れ、これまで「上手く」やってこれたし、これからもそうしようと思っていた。そして、日向とも「上手く」やっていけていると思っていたのだが、そうそう思う通りには物事は運ばないものだ。
 日向を親友以上のものと思い始めたのは一体いつのタイミングだったのか、それに気が付かないほどそっとその「想い」は芽生えていたような気もするし、もしかしたら本当に最初からそうだったのかもしれないとも思える程に、左右田の中の日向への感情は利害の一致から全く別のものに姿を変えていた。
 元々左右田は、機械相手ならともかく人間相手には不器用な性質だった。だからこそ器用なフリで寂しくならない程度に距離を取りながら、自分の柔らかく傷つきやすい心の内に踏み込んでくるものを排除していたのだが、日向と接するうちにどういうわけか日向を都合の良い友人以上に思う気持ちが出て来てしまった。
 最初は適度に仲良くして、良いように使えば良いとすら思っていた。距離が近づき過ぎて疲れるようならそっとフェードアウト、もし裏切られるようなことがあればそれまで。相手の好悪など関係なく、期待するつもりはなかった。だと言うのにいつの間にか左右田の中の日向は憧れの存在であるはずのソニアよりも強く輝いていて。手の届く位置にあった星はいつしか遠く先のものになって、目を焼く程の光だけを残して左右田を一人置いて行ってしまった。
 勿論左右田は焦った。逃がすものかと追いかけたが、利害も友情も関係ない所に感情が動いてしまったせいで、途端にその距離の測り方も縮め方も左右田には分からなくなってしまっていた。
 自業自得だとは分かっている。今まで見て見ぬふりをしてきたツケだと。だとしても、それでも日向の親友以上になりたいのだ。これを恋とか愛だと呼ぶのかどうかは、左右田自身にもわからない。けれど日向の特別になりたいという気持ちは変わらず心にある。
 この気持ちをどこの誰が否定しようと、日向本人に気の迷いだと言われようと左右田和一という人間が望むたった一人は、唯一無二は日向創だけなのだ。だから、自分も日向の唯一でありたかった。
 眩い光を遠くで見ているだけでは足りない。道標にするだけではもどかしい。背中を追いかけるでも追い越すでもなく、ただ左右田は日向の隣を歩く資格が欲しかった。左右田の作り上げた心の壁を日向がひょいと越えて手を差し伸べたように、左右田も日向の手を掴みたかった。

 眠れなくて暇だから星を観ようと言い出したのは日向だった。何でオレなのかと左右田が訊くと、起きていたのがお前だけだからだと返ってきた。せめて友達だからとか、お前が好きそうだったからとか、誘い文句ならそれくらい言って欲しいものだ。男相手にそんなものを期待するだけ虚しいこともわかってはいるが。
 それでも嬉しくなってしまうのだから、気持ちに嘘はつけない。左右田は日向が好きだ。恋愛感情かどうかなどこの際関係なく、ただ一人心を許す存在として、日向創という人間が好きだった。
 じわりと心に浮かぶ喜びを表情に出さないよう、精一杯押し隠して、左右田は日向の後ろをのろのろとついて行く。不思議と夜の空気の中で見る日向の背中はいつもより小さく見えて、左右田は思わずその背中に手を伸ばしそうになり、慌てて手を引っ込めた。
 真夜中に二人コテージを抜け出し、ぽつぽつとしかない灯りを頼りにゆっくりと歩いていく。こんな場所でも一応修学旅行だ、監視されているということもあり消灯時間を過ぎて外へ抜け出すのはいかがなものかと思ったが、予想外に誰からも咎められることはなかった。
「ここからでもよく見えるな、星」
「灯りがないからだろ。そう考えると田舎って感じすんよなァ」
「まあ、南の島だし都会ではないだろうな。……なあ、海の方行ったらもっと景色いいんじゃないか」
「だな。砂浜行ってみっか」
 日向がくすくす笑って左右田を振り返る。その顔に普段見られない幼さのようなものを見て、左右田は妙な不安に駆られた。背筋に走った悪寒に身を竦める。
「……左右田?」
 訝しげに左右田を呼ぶ日向の姿が街灯の下で酷く朧気だった。日向は確かにそこにいるはずなのに存在感が希薄で、実在するのかしないのか――まるで幽霊のようだ。
 腹の奥底が冷えていくような感覚を左右田は強く奥歯を噛み締めることで耐えて、ようやく「何でもねーよ」と答えた。その声にそうか、とあっさり前を向いて進んで行く日向の背を見失わないよう左右田はじっと見つめたまま、徐々に砂混じりになっていく地面を踏みしめ追う。
 波の音が大きく聞こえる。左右田がそっと日向の背から視線を外すと、そこはすぐに海だった。
「すごいな、月だけでもこんなに明るい……星もよく見える」
 日向のシャツが海風にゆらりとはためく。月に照らされて青白いその後ろ姿は不安を煽り、左右田は思わず日向の手を強く掴んでいた。
「そう、だ……?」
 日向がこれ以上遠くに行ってしまうのは嫌だった。左右田自身の不安でそう見えているだけなのかもしれなかったが、今ここで手を離せば、日向はいよいよ左右田の手の届かない所に行ってしまいそうで怖くて仕方がないのだ。
「どうした?」
 左右田は縋るように日向を抱き締める。理由など左右田自身にさえわからない。わからなかったが、薄らと日向の声音や瞳に宿った歪んだ喜びの色が左右田には酷く恐ろしげに映っていた。
「わかんねえ……わかんねーけど、お前こうしてないとどっか行くだろ」
「……べつにどこも行かないって」
 その言葉を否定するように左右田がぐっとその体を抱く腕に力を込めれば、耳元で日向がくすりと笑った。
「確かにちょっと、消えたいなーとかって気持ちはあったけどさ」
「やっぱ危なかったんじゃねえかよ……このまま海にでも入ってったらどうしようかと思ったんだからな」
 夜の黒に染まった波間に、無数の星が飲み込まれていく。日向が同じように波に飲み込まれていく姿を想像して、左右田の肌が粟立った。
 何があっても、日向をあの星屑と同じようにさせたりなどするものか。
 日向を離すまいと左右田が体をぴたりと密着させると、日向は苦笑する。
「うん、ごめんな」
「心配させんじゃねえよ……」
「左右田にはかなわないなあ」
 日向の腕が左右田の背に回される。微かに震えているのは気のせいではない。それが歓喜の震えではないことは、肩を濡らす涙が証明していた。
「なあ、何かあるならオレに言えよ、オレ達……親友だろ」
 自分で言いながら、その言葉に薄ら寒くなる。日向の心に蟠るものの正体もわからないどころか、日向に親友以上を求めているくせに、親友だから話せなんて白々しい、抱き締める腕を拒絶されないことが嬉しいと感じている口がよく言えたものだと。
 日向が自分を求めているのではないことはわかっている。日向はただただ「頼りになる自分」が欲しいだけなのだ。そこに左右田自身はきっと映っていない。それでも左右田は構わない。日向が求めるのなら、いくらでもこの手を差し出そう。
 日向を、自分だけの輝ける星を手に入れられるのなら、日向を満たすことのできる唯一になれるのならそれで構わない。傷の舐め合いでしかないとしても、日向が左右田にしたように、その空虚を埋めてやりたい。
 日向が縋るように左右田の肩に顔を擦り寄せる。
「不安なんだ。記憶のない俺が、才能があるのかすらわからない俺がここにいてもいいのか、毎日毎日不安で仕方ないんだ。俺は……俺は、必要とされてる?」
 左右田は答える代わりに日向を強く抱き締めた。必要とされているか、だなんて訊くまでもない。他の誰がどうだかなど知らない、しかし左右田だけは今確かに日向を必要としている。
「オレは日向だけいればいいから、だから」
 傍にいて、なんて。卑怯な言い回しだなんてことは分かっている。けれどそれで日向が救われるのなら、日向の空虚を埋められるのなら満足だ。それが思い上がりだったとしても、日向というたった一人を手にすることができるのなら、理由も意味もどうだって良かった。
「左右田……?」
 日向の目尻から零れた涙を拭い取る。そのまま、吸い寄せられるようにその頬に口づけた。それをする左右田にはひとかけらの違和感も無かったが、恋情が左右田の心の全てを占めているわけではなかったと思う。今そうすることが一番左右田にとって自然な行為だったというだけだ。
「ん……」
 左右田が頬や眦や鼻先にキスを落とすと、日向の目が心地よさそうに細められた。きっと日向は左右田ほどの想いを抱いてはいない。それでもこうして左右田の与える友情も恋も愛も混じったそれを受け止めたのだから、全てを了承したと取っていいのだろう。
「オレは日向がいなきゃダメだから」
 左右田の駄目押しの一言に、日向がゆるりと頷いた。
 ようやく、喉から手が出る程に求めていた星が手の中に落ちてきた。その輝きを独占するのも濁らせることができるのもこれからは自分一人なのだと理解して、左右田は喜びに打ち震える。
 左右田が好きだと囁けば、日向はこくりと頷き必要とされる歓喜をその目に浮かべ微笑んだ。その微笑みを満足気に見つめ、左右田は日向の親友以上の地位を得た昏い喜びと、二度と友としての日向が戻ってこない悲しみに知らず涙を流していた。

2014.10.12 SUPER COMIC CITY9にて発行したペーパー。