慣れとは怖いものでして。
「左右田、顔。汚れてる」
日課の機械弄りを終えた後ふと横を向くと、雑誌を読んでいた日向が左右田の顔を指差してそう言った。
「え、どこ」
慌てて顔を擦るとより汚れたらしく、日向がくすりと笑って雑誌を閉じた。雑誌から興味が逸れて日向が自分の方を向いたのに少々気を良くした左右田だったが、また日向が顔を見て吹き出したので眉間に皺を寄せた。
「違う違う、ここ。そっちじゃなくて反対側……ああ、いいよ、拭いてやるから」
タオル貸せ、と差し出された日向の手に近場にあったそれを放ってやる。そのまま水道へ向かい手早くタオルを濡らすと固く絞り、また左右田の傍まで戻ってきた。
こっちを向けと言われるままに左右田が従うと、痛くない程度の手つきで日向の持つタオルがその顔を拭っていく。その程度なら自分でもできることだというのに、他でもない日向がそれをしてくれるというのが左右田には嬉しいのだった。
日向が左右田の細かい様子に気が付いて何か働きかけてくるのはほぼ習慣のようになりつつあった。日常のそれが嬉しくてあえて放置していたが、そこにはひとつ違和感が残っていた。
「母親じゃねーんだからさあ……」
「え?」
あまりにも接触が自然になりすぎたせいか、日向がするのは親が子供に与えるそれになりつつあるのだ。それを受け取る左右田も日向の愛情は感じるが、それが本当に恋人としてのものなのかというと疑問がある。
半ば責めるような左右田の視線を受けても、日向は至極普段通りだ。本人としてはそういうつもりはないようである。日向がタオルを持ったまま首を傾げて、左右田は慣れというものの怖さを噛み締めていた。
「別に母親みたいにしてるつもりはないんだけど……でもなんか、つい慣れでそうしちゃうんだよな」
「つっても、なんかもっとこうあるだろ……こ、恋人なんだからよォ」
左右田が遠慮がちに日向の手を掴んだ。二人の視線が一瞬交わり、また離れる。気恥ずかしさにお互いがお互いを直視できず目が泳ぐが、繋いだ手は離れる気配がなかった。
「そうだよな……恋人、だもんな……あは、あはは」
日向の乾いた笑いに、左右田は眉をしかめた。
「笑ってごまかしてんなよ!オレは、日向と……」
ぐっと、日向の手を握る指に力が籠った。触れ合う指先からじんわりと互いの体温が混じり合うと、それまで気恥ずかしさで離れていた視線も自然と互いに向き、熱を帯びていく。
「そ、左右田?」
「オレは……その、こ、恋人らしいことしてーっつーか、あの、アレだ、だから……」
「う、うん……」
「日向ともっと、い、イチャイチャしてーんだよ!」
言い切ったという少しの達成感と同時に、言ってしまった、という後悔の念が左右田の中に渦巻く。嘘を言おうなんてつもりは毛頭なかったが、さすがに「イチャイチャしたい」までいくと素直に言い過ぎた感があって恥ずかしかった。
徐々に自分の鼓動が速まるのを感じながらも、左右田は握った日向の手を離さない。今を逃したら、きっとまた元の所帯染みた雰囲気に逆戻りしてしまう。
それだけはどうか、と左右田が内心祈っていると、握っていた日向の手が離れていく。一瞬の喪失感のあと、恐る恐る、といった様子で左右田の指先に再び日向のそれが触れ、やんわりと絡んだ。
「ひ、ひなた?」
「え、えっとさ……その、イチャイチャってよくわかんないけど、まあ、手ぐらいは繋いでもいいのかなって」
日向が恥ずかしさに俯くが、左右田より数センチ背の高い日向がそれをしても顔は隠せない。左右田からはほんのりと赤くなった頬も眦も全てが見えていた。日向からも同様に左右田の真っ赤な顔が見えているだろう。
「……日向お前ほんと、ずっりぃ」
「おあいこだろ、この場合は」
日向がはにかむ。茶化すなよと左右田が言えば、お前こそ、と笑われた。
「日向」
「なんだよ」
「……キスしたい」
左右田が日向に囁いた声は情けなく震えていたが、それを聞いた日向には気付かれていなかったようだ。
じわじわと熱くなる顔や耳の辺りの熱に気付かない振りをして少し上にある日向の顔を見つめると、日向も同じように左右田を見つめた。
ゆっくりと距離が詰まり、やがてそれはゼロになる。時間にすればほんの一瞬のことだったが、二人にはそれが酷く長いものに思えた。
ほうと息を吐いて、日向の瞼が震える。今度は左右田の方がぐいと身を乗り出して、離れたその唇を捉えた。
「ん、む」
その口づけを深いものにしようとして、かつんと歯がぶつかり、唇が離れる。
「慣れないな」
日向が思わず零れた笑みのままそう言うと、左右田が唸りながら帽子を目元まで下ろし、ばーかばーかと悪態をついた。しかし帽子に隠れきらない丸見えの耳が真っ赤に染まっていて、日向は笑いを堪えきれない。
「回数重ねればそのうち慣れるって。イチャイチャ」
身もフタもない日向の言葉に、お決まりの「うっせ」と共に左右田がその肩を小突いたが効果はなく、呆れて怒気も羞恥も抜けていく。ほんの一分前にはあんなに甘い雰囲気で唇を重ねたというのに、もう日常の、少し所帯染みた空気に戻ってしまった。
「ムードもへったくれもねーんだけど」
「まあ、そのうち慣れるからいいだろ。うん」
「そういうもんか?」
「そういうものだろ」
でもその甘い雰囲気もそのうち日常の一部になるのだと思えば、悪くはないかもしれない。その日常の一場面の中で笑う日向を見て、そんなことを思いつつ、左右田も慣れに慣れた日常へ戻っていくのだった。